2010'11.26.Fri
映画のDVDの二回目見ながらだらだら感想書いてたらとんでもなく長くなってた、なにこれこわい!ついでに日記のデザインもチェンジ!なにこれ爽やか!こわい!
■(500)日のサマー
【奇跡的な出会い】
主人公トムは少年時代に聞いたポップソングの詩や恋愛映画に惹かれ、大人になっても運命的な出会いを信じていた。映画「卒業」の劇的なラストシーンが示すものを勘違いしていたからだ。ある日トムの会社に男なら誰でも見惚れてしまうような魅力的な女性が就職してくる。この映画の題名を自らの名前で飾る"サマー"だ。
【え、これ恋愛映画じゃないの?】
映画の始まりは黒背景に白文字のシンプルだがやや物騒な内容のテロップから。
『この映画はフィクションだし、実在する人にも何故か似てるけど全然関係無いんだ!』
『特にあのジェニー・ベックマンにはね…ビッチ女!』
思いっきり関係あるって言ってるようなもんでしょこれはwwwしかもしばらく映画を見ていれば分かるんだけど、どうやらそのジェニーとやらが作中の"サマー"そのもので、今では『bitch!』とか言っちゃうほど彼女に対するイメージが悪化してしまったのであろう事も分かってくる。おまけにやたら重低音な声のナレーターが付け加えるにはこうだ。
『この映画は"男女が出会う話(Boy meets Girl)"ではあるが"恋愛映画"ではない。"愛"についての映画だ』
どう考えても恋愛がテーマの物語なのにこんな警告まで入れちゃう。でも最後まで見続けると意味が分かる。なるほど確かにこれは恋愛映画じゃない、トムが"恋愛"を知る映画なのね。
【時間軸を前後するシーン移動】
本編では彼女との出会いや恋愛模様が描かれるのだけれど、場面と時間軸の移動がちょっと面白い。彼女と出会ってからの500日を改めて振り返るかのように、順を追ってではなくランダムにシーンが再生されるんですね。例えば488日目結婚指輪を着けた女性と、手を重ね合わせながらベンチに並んで座る男性の仲睦まじい姿から物語が始まったかと思ったら、静かに怒り狂った男性が淡々と食器皿を割り続ける290日目に飛…んだかと思えば今度は初めて2人が出会った"運命"的な1日目に飛んじゃう。
つまりこれは既に経験した過去を、それも"彼女"との記憶を"誰か"が思い出しているワケです。勿論"誰か"っていうのは主人公のトムで、"彼女"っていうのはサマーのこと。だとすれば「(500)日のサマー」という題名はそのまんま、サマーについての500日間の日々と考えるのが自然かな?
【全く違う二人】
トムは運命至上主義者。劇的で"運命"的な恋愛こそ最高で、それが叶う女性に出会うことを望みながら生きている。同乗したエレベーターの中で自分の好きな曲を「好き」だと良い、そのセンスを褒めてくれたサマーを一生添い遂げるべき女性だと信じる純粋さを持っている。
対してサマーは現実主義で自由主義者。幼い頃に両親の結婚生活が破綻したせいで恋愛に過剰な幻想を持ち込まなくなった。そんな彼女の関心は、自身の美しく伸びた長い髪とそれを躊躇無く切り落とす事だけ。"切り落とした髪"に未練は無いし、ましてや"後ろ髪を引かれ"たりはしない。これらの過去は後に語られる彼女の恋愛観・恋愛遍歴そのものに明らかに反映されている。一言で言えば"伸ばしてはバッサリ切る"の繰り返し。
二人の人となりが分かってくるにつれて、観ている側は『本当にこの二人がハッピーエンドを迎えるのか…?』と思えてくる。実際500日間の前半部のシーンに飛んだ時は幸せそうにしているトムが、直後に飛んだ後半部では全く同じ場所で超不幸そうな顔をしてるんだものwww勿論制作側が前・後半のギャップを表現する為にやってるのは分かるんだけど、あまりにもトムの様子が違いすぎて噴いちゃうんだってw
-------------↓ここから結構ネタバレ↓--------------------
【運命ではなかった?二人の恋愛】
中盤、どうやらトムが完全に失恋したことが誰の目にも明らかになってくる。同様に日付を表示する背景の色彩が暖色から寒色に、寒色から暖色に目まぐるしく変化する意味にも観客は薄々気付き始める。そして次第に彼はあれほど夢見ていた運命的恋愛に失望していくワケです…が、同僚の結婚式に呼ばれて向かった電車内で同じく呼ばれたサマーと再会、彼女との復縁に希望の光が見えて急に元気になったかと思えば、彼女に招待されて喜び勇んで行ったパーティーで"あるモノ"を見て、今度こそ二度と立ち上がれなくなるほど絶望してしまうんですね。持ち上げて叩き落すとかホント悪女だなw
『運命なんてありえない』『愛ってなんなんだよ?』『僕は嘘を書いて他人を騙してるんだ』
精神的にドン底に叩き落とされたトムは、上司に才能を認められていたグリーティングカードのメッセージを考える職務にも支障をきたしていく。まぁ当たり前だけれど、自分が幸せでなければ他人を祝福なんて出来るはずがないんだよね…。
【愛を叶えるガジェット】
ところであくまで小物として扱われてるけど、この映画におけるグリーティングカードは凄く重要な意味合いがあります。それは唯一この映画でトムの主観で描かれていない、既婚者へのインタビュー(?)シーンにも表れていると思う。
『21年間もの間、彼女は私を導く灯りなんだ。それは一枚のグリーティングカードから始まった。確かに書かれていた言葉は私ではなく他人が考えた言葉だよ。でも私はそれを嘘にはしなかったからね』
彼らの言葉は何を意味しているのか。インタビューシーンの3人は誰も"運命"を否定してはいない。むしろ運命的に伴侶に出会った事を認め、好意的に受け止めている。では運命を信奉するトムと何が違うのか?3人のノロケとも言えるインタビューの後、トムのインタビューシーンが映し出される。しかしトムは何かを言おうとはするものの上手く言葉には出来ずに言い淀んでしまう。トムが再び口を開く前にビデオカメラの映像は途切れる。この場面はトムと3人のパッと見では分かりづらい違いをしかし明確に示しているんじゃないかな…凄く面白いところなんで詳しく書きませんがw
【再会】
物語は再び一番最初に二人がベンチに座っていた488日目に戻る(観ている側に"戻る"と感じさせるところがこの映画の時間進行の上手さ)。結婚指輪を煌めかせて幸せそうに見つめ合っていた二人は、実はもう完全に終わっていた。両親の離婚を経験し、永遠の愛を信じないと公言したサマーは別の誰かと結婚していたからだ。
『…結婚したんだね』
『そうね、(あんな事を言ってた私が)おかしいかな?』
『君は誰のものにもなりたくなかったはずだ、でも今は誰かの妻だものな』
『私だって驚いてるの』
『まぁ理解出来なくはないけど…だけど辻褄が合わない』
『…でもね、ある日分かったの。貴方とずっと一緒にいられるって確信が無いって』
トムはサマーを運命の相手だと信じていたが、サマーにとってトムはそうではなかった。改めて聞かされる言葉にトムは涙を堪えるように顔を大きく逸らし、一息ついてこう言った。
『気付いたんだ。君は正しかった。運命や心の友、真実の愛、そして少年時代の御伽話、こんなの皆くだらないものだったんだって』
『…違うのよ、トム』
『何が?』
『私がカフェで紅茶を飲みながら本を読んでいたら男性がやってきて、その本について尋ねてきたの。その彼が今の夫』
『…そうなんだ』
『もし私が映画を観に行っていたら?私がどこか他のところに食事をしに行っていたら?私がここに着くのが10分遅れていたら?…これは、運命なのよ。そしてずっとそのことを考えた結果、分かった。トムは正しかったんだって』
『まさか、そんな』
『ホントよ…私じゃなくて貴方が正しかったの』
戸惑うトムの手にサマーは一瞬だけ、でもまるで恋人同士だった頃のように自分の手を重ねて、そして去っていった。
【トムの成長と新しい出会い】
プロローグに出てきた"例の"ナレーションが、エピローグで運命観に対するトムの内面の変化について意味深に語り始めるのだけれど、それを簡単にまとめればこういうことになるだろうか?
『トムは分かった、全ては偶然の産物なのだと。偶然以外のものは何も無い。知ったのだ、奇跡なんて無い、運命なんて無いと。』
『運命(=奇跡)が無いからこそ運命なのだと』
このシーンでトムはある女性と"運命の"出会いをする事になる。彼女の名前がまた上手く捻っていて面白いのだけれど、これは見てからのお楽しみ。その後の演出も含めてやられたー!って感じがしましたwww
【映画の感想の違いから見える本当のスタンス】
多分だけれど、サマーとトムが結ばれる"運命"もあったのだと思う。そう思わせるのは映画「卒業」を二人で見た時の反応の違い。
映画「卒業」が引用され強調されているのは、いわゆるラストの花嫁を奪って逃げる駆け落ちシーン。色んな漫画や映画でパロディにされてるやつね。でもアレって本当はハッピーエンドじゃないんですよ。車に乗り込んで逃げる二人の表情が晴れやかな顔から段々悲壮な顔になってくるから。『駆け落ちしたはいいけどこれからどうしよう…』って不安に怯えてるんですね。
幼い頃に見た「卒業」のラストシーンの意味をトムはきちんと分からないまま素直に見ていた事がプロローグで語られている。要するに大好きではあるけどありがちな感動物だと思っているワケ。なので純粋で優しいが単純すぎる故に、サマーの気持ちが分からない。
では逆にサマーはどう解釈したのか?何故「卒業」のラストシーンで普段は表情をあまり崩さず捉えどころのないサマーが涙を抑えられずに泣いたのか?実はトムよりも彼女こそが本当はロマンチストの運命的な恋愛を待ち望んでいたのではないか?やはりサマーは"ナンシー"ではなく"シド(・ヴィシャス)"だったのだろうか。だがそんなサマーの感情の爆発を理解出来ないトムは「たかが映画じゃないか(、君らしくもない)」と思わず口にしてしまう。
【何が悪かったの?】
トムは運命論信者ではあるが、しかしそれゆえに受身になりがちだった。もし奇跡のような運命があるなら、身を削る努力は必要無くなるからだ。それを示すかのように、彼は建築家になりたかったのに早々に諦めて今の仕事に甘んじている。思い描く理想の建築物をなんとなく紙に書き始めるものの、すぐ消してゴミ箱に捨ててしまう。刹那的に生きるサマーに真っ向から真摯な愛の存在を説いておきながら、肝心の告白のタイミングで言葉を濁してしまう。初めてのキスをするにも自分から踏み出せずにサマーの方から求めさせてしまう。彼女が男に言い寄られても何もしなかったのに、自分がバカにされた瞬間殴りかかる。
だが最もまずかったのは、本心を曝け出さなかったことではないのか?別れる直前まで喧嘩しても仲直りの言葉を待っていたサマーに電話もかけられない。例の映画を観終わった後に入ったCDショップでよそよそしかった彼女の気を引く為に見せた(よりにもよって付き合い始めの頃に初めて意見が別れた)リンゴ・スター「バラの香りを」のジャケットも、本当に見せたかったのは裏側の方だったはずなのに隠してしまう。誤魔化しでキスされても敢えて気付かないフリをしてその場をやり過ごしてしまう。…彼女は初めて"運命"を感じさせてくれそうなトムに少なからず興味を持っていたかもしれないのに。
結婚後にわざわざトムのお気に入りの場所に現れて『運命はあったのよ』と語ったサマー、その結婚生活は本当に幸せだったのだろうか?トムと手を重ねて『私じゃなかった、貴方が正しかったの』と漏らした彼女の真意は?実はサマーはトムが運命の相手だったのだと今更悟り、後悔の念に駆られてしまったのではないのか?まるで映画「卒業」で描かれなかった未来のように。そして彼女も本当の気持ちを言い出せないだけなのではないか?裏返しのCDジャケットのように。しかし成長したトムは彼女を送り返す。それが終わってしまった関係への礼儀だから。彼女が過去を囚われないようにする為に。
『サマー、この先の君の幸せを心から祈ってるよ!』
【映画が教えてくれること】
この映画の"辛い"ところはトムの主観記憶のみで構成されているので、トムの目に映るサマーの心情もまたトムが感じたようにしか観ている側も感じ得ないということ。初期のトムがサマーの全てが愛おしく思えていたように、また後期のトムがサマーの全てが憎らしく思えていたように僕らも感じるしかない。凄くもどかしい気持ちになるんですよ、それこそトムと同じように。
でもトムの主観に沿いながらもつい"偶然"を装って他人の主観を混入させることがある。トムの主観では知り得ない、喧嘩した日に電話をずっと待っていたサマーの寂しそうな顔を画面二分割で"実況"したり、トムが目を伏せている時に横顔を見つめるサマーの特別な顔を映し出している。つまり全てがトムの主観かのように見せながら、こっそり映画的な嘘をついているんです。それが現実ではない、創作物の柔軟さであることを作り手が凄く良く分かっているのは間違いない。
何故こんなに「(500)日のサマー」が気になってしまうのかと言えば、自分にも覚えがあるから。というよりぶっちゃけほぼそのままなんですけどね。数年前つい頭に血が昇って日記に書いて後悔したのでもう二度と書きませんがーw 人間は人生が不可逆だからこそ過去を思い出してしまう。その人が唯一だったと思ってしまう。でもそうじゃないんだよね。
『彼女が特別な存在だって思ってることは分かってる。でも私はそうは思わない。良かったことだけ思い出そうとしてるんじゃないかな』
一回り年下の妹に恋愛指南されるトムの姿はちょっとおかしいけれど、でもそのおかげでそんなの理想だよ!と脊髄反射的に跳ね返したりはしないようになっている。そういうビミョーな優しさというか製作者の自己愛がいいなと思う。
人生は不可逆的で、恐らく一回性でもある。『奇跡は無い』し、『運命も無い』。『全てが偶然である』ことこそが『運命』なんだとこの映画は教えてくれている。過去の事ばかり考えていても仕方がない、だけどそれでもつい後悔してしまうナヨナヨした僕らの代わりにこういう映画が過去を振り返ってくれる。映画が何故人間の人生を描くのか、その理由がそこにあると思う。
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